「恋愛感情がわからない」という言葉を隠蓑にして、他人の好意と己の惰弱さに向き合うのを避けている。だけれど実際わからないのだから仕方がない。というか他の人もわかった気になっているだけなのではないだろうか。別にわかっていなくても子供は生まれるし人は大人になるんだから、愛に関連する感情の種類なんて最低限でいい。そんな思弁の中で、世俗の話題にまでダーウィニズムの原理を敷衍してしまっている自分に気づく。

自分は両性愛者なのではないかと思うことがある。確かに恋愛対象は女性のはずだが容姿に関しては男性に対する嗜好の方が詳細だし、街中で目で追ってしまう人も男性の方が断然多い。

女性同士の愛情をはたから見ている方が自身の異性との関わりよりもずっとときめきを覚えて、その他の関係は遍く愛情に似た紛い物みたいに見える。もしも来世があるのならあの子たちみたいに日々のすべてを初めてみたいに愛したい。

人間が感じうる愛情の中で、みんなが持ってる恋愛感情だけが欠落しているから他の名前の愛情をかき集めているのかな。それらをコラージュしたものに恋愛という名前をつけているのかもしれない。

それなら得体の知れない感情に名付けられた「好き」を信じた人は、俺にとっての何になるんだろう。君が言ってくれたのと同じ意味で言えた日はあるんだろうか。

「猫みたいで可愛いね。君に出会えてよかった。君がこの先触れる世界が綺麗なもので溢れますように。俺の言葉が君の助けになれば嬉しい。今だけは君の声と体温が世界の全てだったらいいのにな。」

確かに愛しているはずなのに、そうでもないと生まれない感情が言葉になっているはずなのに、君が俺に抱いているのと同じ感情だけが欠けている。いつか君と同じ気持ちになりたい。

君の掌でなぞってくれないと自分に輪郭があることすら忘れそうになる。

柔らかな皮膚が触れると境界が消えて熱くて、ベルソムラを飲んだ翌朝みたいな気怠い安寧が浸透する。

 

彼女がいても他の人に対して感じる気持ちが変わらないから付き合うのとか向いてないのかもしれない。変に浮気みたいになる前にさっさと結婚して子育てに移行できればいいなとも思う。親族に対する愛情は確実に持てるから。

 

私小説もどきを面白くするために無から悩みを生成している嫌いがある。恋愛の話はやたらに展延性を持っているから。