6. 異種間の証拠
第六にして最後の証拠は、標準的な性差の多くがほかの動物にも見られることである。たとえば、大半の哺乳類と多くの非哺乳類の種では、雄のほうが雌よりも複数の配偶相手を求めることに関心が強く、雌のほうが配偶相手に対して選り好みが強く、雄のほうが小競り合いやけんかに巻き込まれやすく、雌のほうが養育的である。その差は、ヒト以外の大半の哺乳類のほうがヒトよりも大きい。それでも類似は紛れもなく、ヒトに見られる差には進化的な起源があるという想定のほうへ、確率の天秤を傾ける。
もちろん、動物界全体を見渡せば、雌雄の行動にはばく大な変異がある。進化的アプローチを批判する論者の一部は、その支持者が、自らの好ましいとする社会のあり方にたまたま合致する種だけを都合よく選び取っていると論じてきた。この見方に立てば、生きているものであれ死に絶えたものであれ、ほかの種との類似はまったくの偶然にすぎない。人々が動物に関する文献を選択的に引用することが実際にある、と言ってよいと思う。ただし、それが政治的立場の左右どちらの陣営でも起こる、と言うこともまた公平である。一方では、性役割に関する伝統主義者は、進化理論を避けることが多いが、シルバーバックのゴリラの家父長的な保護の姿勢に手本を見いだす。他方では、性役割に関する進歩主義者は、ほかの動物がヒトについて何かを教えてくれるという考えを通常は否定するが、雌が優位なハイエナ、性的に解放されたボノボ、性役割が逆転したレンカク、雌だけからなる「レズビアン」トカゲ、同性どうしでつがいの絆を形成する雌のアホウドリ、雄から雌へ性転換するクマノミの話を聞くと、突然、言い分を変える。どちらの陣営も、都合のよいものだけを選び取りやすい。したがって、ヒトをほかの動物と比較するときには、常に慎重であるべきである。
とはいえ公平を期して言えば、進化的な議論は、「ほら、ヒトに見られる性差をどことなく思わせる性差をもつ種がいる。したがって、ヒトの性差は生得的だ」という単純なものではない。その議論とは、ヒトと同じ選択圧(次章でより詳しく検討する)にさらされたほかの種では、通常ヒトに見られるのと同じ一群の性差が見つかる傾向がある、というものである。
ほかの種でこの一群の性差が見つかったとき、私たちはそれを進化の観点から説明することをためらわない。たとえば、雌雄のアライグマが異なる行動をとるのは、恣意的なアライグマの性役割に沿った行動に報酬が与えられるからだ、あるいは、幼いアライグマが自分に雌または雄というラベルを貼ることを学んだとたんに、その性について広く共有されたアライグマのステレオタイプに行動を合わせようと努め始めるからだ、と論じる者はいない。たしかに、アライグマはヒトではなく、ヒトはアライグマではない。しかし、ほかの種ではこれらの差が明らかに進化に起源をもつ以上、風変わりな一種の霊長類においてだけ、まったく同じ差がまったく別の説明、すなわち学習、社会化、文化によって説明されるというのは、きわめて奇妙である。
なぜ自然選択は、ヒトという種においてだけこれらの性差を白紙に戻しておきながら、そのあとで私たちが、記録に残るあらゆる社会で同じ一連の性差を一から作り直すことになるのか。